"この流行は応仁・文明の乱で茶会どころではなくなる15世紀後半まで続いた。
一方で平安初期以来の団茶体系の茶も寺居宅の間では続いていたと考えられ、これがやがて煎茶の勃興にいたる。
その隠居所に建設られた東求堂に、同仁斎と呼ばれる日本最古の書院茶の湯形式の茶室がある。
これに対し、足利義政の茶の師匠である村田珠光が茶会での博打や飲酒を禁止し、亭主と客との精神交流を優先する茶会のあり方を説いた。
利休のわび茶は武士階層にも広まり、蒲生氏郷、細川三斎、牧村兵部、瀬田掃部、古田織部、芝山監物、高山右近ら「利休七哲」と呼ばれる弟子たちを生んでいく。
また、本場中国の茶器「唐物」がもてはやされ、大金を使って蒐集し、これを使用して盛大な茶会を催す事が大名の間でトレンドした(これを「唐物数寄」と呼ぶ)。
加えてはわび茶から向上し、織田有楽、小堀遠州、片桐石州ら流派をなす大名も現われた。
この四畳半の簡素な小部屋で禁欲的な茶礼と、同朋衆として知られる唐物数寄の人々のによる中国渡来の美術品の鑑評会が融合し、書院茶の湯として展開した。
これがわび茶の源流となっていく。
1472年、義政は息子に将軍位を譲り東山に隠棲した。
現代では特に武家茶道、あるいは大名茶などと呼んで区別する場合もある。
鎌倉ご時世最末期、後醍醐天皇や光厳天皇の宮廷で、飲んだ水の産地を当てる闘水という遊戯から、闘茶という、飲んだ茶の銘柄を当てる一種の博打が催され、建武の新政・南北朝時代・室町時代には庶民や武士の間でもトレンドし(『二条河原の落書』)、あまりの過熱さに武家法で禁じられるほどだった(『建武式目』)。
わび茶はその後、堺の町衆である武野紹鴎、その弟子の千利休によって安土桃山ご時世に完成されるに至った。"